2020年7月28日火曜日

ろくでなし子氏裁判 最高裁判決についての意見書

【はじめに】

7月16日、最高裁判決にてろくでなし子氏の有罪が確定しました。ろくでなし子氏のプロジェクトアートの過程における、ご自身の女性器をスキャンした三次元形状データファイル(以下「本件3Dデータ」)を、クラウドストレージを利用する手段・CD-Rに複製して郵送する手段で配布した部分について、わいせつ電磁的記録等送信頒布、わいせつ電磁的記録記録媒体頒布の罪に問われていた裁判です(なお、都内アダルトショップにおける、女性器をかたどった立体作品「デコまん」の展示については、2016年5月9日の東京地裁の判決で無罪となっている)。



【意見の趣旨】

この度の最高裁判決は不当判決である。
刑法175条について、廃止を含めた検討を始める時期にあると考える。



【意見の理由】

[理由1]
罪に問われた本件3Dデータの配布は、ろくでなし子氏のプロジェクトアートの過程でのことである。違法性阻却のための芸術性・思想性が認められるかについては、プロジェクトアートとして扱い検証するべきであったが、プロジェクトアートとしては検証するべき焦点がずれ、バランスを欠いた判断がなされた。

[理由2]
そもそも、裁判官がわいせつ性の有無を判断する際のわいせつ3要件における、「普通人」の判断基準、「普通人」の「正常な性的羞恥心」の判断基準、これらの妥当性に疑問がある。
また、その判断の際、裁判官の主観性を完全に斥ける手段は、我が国の司法のシステムには備わっていない。



【意見の背景】

[理由1について]
プロジェクトアートの本質には「過程」があります。アーティストが作意により企図したプロジェクトの進行、オーディエンスとの関わり、そうした要因による可変的な現前、それら全体が作品です。作品には、プロジェクトの中の個別のプロジェクト、そして、プロジェクトにおいて制作した個別の物やデータも含まれます。プロジェクトアートは、こうした「過程」を除外してとらえることは出来ません。
また、こうしたプロジェクトアートは、現代の芸術が陥っていた様相への一つのアンチテーゼでもあり、美術館のホワイトキューブで展示された物のみが作品となるのか? という問いへの一つの解でもありました。
こうしたプロジェクトアートの本質を鑑みれば、プロジェクト全体の中の個別のプロジェクト、および、制作した個別の物やデータ状の作品について検証を試みる際には、プロジェクト全体の「過程」としての「持続」が作品であって、その「持続」の「断片」を検証しているのだという意識がなければ判断を誤ります。「断片」は同時に「持続」なのだから、「断片」を対象に検証する際は、同時に「持続」としても検証していなければなりません。
しかしながら、判決文(※1)を見ると、「行為者によって頒布された電磁的記録又は電磁的記録に係る記録媒体について」ばかりが焦点となり、「断片」と同時に注がれるべき「持続」への視点を欠く内容となっています。
わいせつ性については、本件3Dデータを「コンピュータにより画面に映し出した画像やプリントアウトしたものなど同記録を視覚化したもののみを見て」、違法性阻却のための芸術性・思想性やわいせつ性の検討および判断をするべきであるとし、そして、「本件データ又は本件CD-Rの頒布が前記各機会を他者に与えるものであることに」、すなわち、本件3Dデータを配布された人々に、そのデータを加工して創作をする機会を与えるものであることに、「芸術性・思想性が含まれているとしても、そのことを考慮してこれらの検討及び判断をすべきではない」と明言しています。
これは、プロジェクト全体の「過程」としての「持続」の一部分である本件3Dデータの提供から、さらにそのデータを視覚化した情報のみを焦点としているのであって、すなわち、「断片」のさらなる「断片」のみを焦点としているのであって、プロジェクトアートが「持続」であることに基づけば、適当なバランスによる検証が成立しているわけがありません。
「持続」への視点を持つならば、次のような要素も検証の対象として加味されてしかるべきでした。この度の、全体のプロジェクトがどういった作意から企図されたのかということの思想はもちろんのこと、個別のプロジェクトとしての本件3Dデータの配布が全体のプロジェクトから見てどういった位置にあり、他の個別のプロジェクトとどのように関係し、その関係性による配布それ自体の「行為」としての作品性、オーディエンスとしての本件3Dデータを受け取った人々との関わり、またそのオーディエンス側の作意、それらによる可変的な現前。
この度の最高裁では、そうした要素の中でも、本件3Dデータを受け取った人々の作意が一考だにされませんでした。その上で、本件3Dデータにわいせつ性があると断じたのは、検証するべき重要な要素を見落とした、バランスに欠ける判断です。
プロジェクトアートは、関わったオーディエンスの介在も作品の一部です。プロジェクトアートの「過程」には、アーティストとオーディエンス双方により作品を作りあげているという要素もあります。したがって、アーティストの作意だけを芸術性・思想性の検証の対象とするのではなく、オーディエンスとしての本件3Dデータを受け取った人々の作意についての視点も必要です。
本件3Dデータを受け取った人々は、ろくでなし子氏の作品「マンボート」の制作に賛同し、クラウドファンディングにて資金提供をした人々、氏が創作、販売した商品を購入した人々の一部です。本来ならば、そうした人々に、本件3Dデータがどういった解釈で受け取られたのかについても考慮し、芸術性・思想性が検証されていなければなりませんでした。
ろくでなし子氏は「女性器に対する卑わいな印象を払拭し、女性器を表現することを日常生活に浸透させたいという思想」に基づいてプロジェクトアートを進行していました。ゆえに、アーティストとオーディエンスという関係性から判断すれば、本件3Dデータを受け取った人々には氏のこの思想に共鳴や賛同する思想があったという見方が成り立ちます。そうした人々にとって本件3Dデータは、その思想の証、ないし、——自らも「データを加工して創作」を試みるためであればこそ——作品を創作する上での「素材」と解釈されていたのではないかということです。それを一考だにせず、わいせつの3要件を満たすものとして解釈されていたと断じるならば、それは公平性に欠ける判断といわざるを得ません。
また、この度の裁判のように「コンピュータにより画面に映し出した画像やプリントアウトしたものなど同記録を視覚化したもの」を見て判断するというならば、なおさら、本件3Dデータを受け取った人々の作為の介在を無視することはできません。本件3Dデータは、データを加工するためのアプリケーションの性能上可能である限りの自由度で着色できるのであって、本件3Dデータを受け取った人々の作意をもってすれば、本件3Dデータは作品を創作する上での「素材」となります。それにもかかわらず、裁判官は、その人々に本件3Dデータはわいせつの3要件を満たすものとして受け取られていると、アーティストとオーディエンスの関係性を考慮せずに、第三者の立場から決めつけています。本件3Dデータを受け取った人々の作意は、裁判官があらかじめ推し量ることはできないのであって、なおさら公平な判断とはいえません。
以上のように、違法性阻却のための芸術性・思想性について認められるかについては、検証対象とする要素への視点の欠落があり、プロジェクトアートとしての検証を十分に行なうことが出来ていなかったということは明らかです。これでは、プロジェクトアートとして作品の芸術性・思想性の有無を判断していたことにはなりません。

[理由2について]
(1)いたずらに性欲を興奮又は刺激せしめ
(2)普通人の正常な性的羞恥心を害し
(3)善良な性的道義観念に反するもの
刑法175条で罪に問われる対象にわいせつ性があると判断するためには、これらのわいせつ3要件を満たす必要があります。
このうちの「普通人」を巡っては、そもそもいくつかの疑問があります。
第一に、「普通人」の判断基準は何か。
第二に、「普通人」の「正常な性的羞恥心」の判断基準何か。
第三に、それらを判断する際、裁判官の主観性を完全に斥ける手段はあるのか。
第一、第二について。これらわいせつ3要件は、1957年の「チャタレイ夫人の恋人」を巡る最高裁判決で示されたものであり、以降、1969年の「悪徳の栄え」事件判決や1980年の「四畳半襖の下張」事件判決等で判断の枠組みが作らたという経緯があります。よって、「普通人」であることおよび「普通人」の「正常な性的羞恥心」の判断基準はそうした過去の判例といえるのであり、判断材料としては被告側の主張があります。
しかし、道徳的価値観は時代によって異なります。過去の判例を判断基準として、過去の判断や出来事を現在にあてはめて判断をしようとしても、現在の価値観から見て必ずしも適当とはいえない判断が生じることがあります。よって、過去の判例を判断基準とすることの妥当性は、問われる部分があります。
第三について。感覚や思想は個人によって差異があります。性道徳を含む道徳的価値観や性的な感覚もまた、個人によって差異があり、個別の社会集団や個人によっても——特に個人の性的嗜好・性的指向によっても——差異があります。したがって、道徳的価値観や性的な感覚に基づく正常か異常かの判断も、個人によって差異があり、そうした判断から裁判官個人としての主観性を完全に斥けるのは不可能です。
過去の判例に頼るという手段により、主観性を斥け客観性を保つことができるという反論があるかもしれません。しかし、道徳的価値観は時代によって異なります。上に述べたのと同様、過去と現在の価値観の差異により、必ずしも適当とはいえない判断が生じることがあります。
このように、「普通人」や「普通人」の「正常な性的羞恥心」の判断基準を、過去の判例に頼れば、現在の価値観との整合性において問題が生じます。そして、それらを判断する際も、裁判官個人の主観性の介在を完全に斥けるのは困難で、それを実現する適切な手段を見出すのもまた難しい現状があります。



【結 論】

この度の最高裁で、作品のわいせつ性を判断するにあたっては、プロジェクトアートとして「過程」という視点がどのように判決に反映されているかという点につきまして、私どもは注目していた次第です。
しかしながら、この度の最高裁においては、初動からプロジェクトアートとして検証すべき焦点が見失われ、「過程」として本来検証すべきであった要素について十分に取り扱われないままの判決となりました。これは、裁判官のプロジェクトアートについての知見がもともと必要な水準に達していないために、判断を見誤ったということです。したがって、この度の最高裁判決は不当判決であったということは明らかです。
そもそも、刑法175条のわいせつ性の判断に問題点があるということは、上に述べたとおりです。道徳的価値観や性的感覚は、時代や個別の社会集団や個人によって差異があるし、それに基づく判断から個人の主観性を完全に斥けることは不可能です。
結局のところ、道徳的規範から外れることを根拠に刑事罰を科すのであっては、各社会集団や個人の道徳的価値観を根拠とし、国が国全体に向けた道徳的規範を決定し、国民にその道徳的価値観における理性を模倣させる圧力が生じることになります。各社会集団や個人の道徳的価値観は、各社会集団内で共有されたり個人が持ったりすることには問題は生じないかも知れませんが、その外部の社会や個人を巻き込みそうした圧力が生じれば、巻き込まれた側の人々の価値観や思想が否定されることにもなりかねません。グローバル化が進んだ現代社会では、ある社会集団に共有される道徳的価値観に基づき、その外部の社会に向かって理性を模倣させる圧力を与える場面があり、軋轢が生じる例も少なくありません。
刑法175条には以上のような問題点があり、その上、被害者が発生していないのに刑事罰が科せられます。刑法175条の正当性はそろそろ問われるべきであり、廃止を含めた検討も行われるべき時期に来ています。

最後に特筆しておきますが、この度の最高裁における裁判官はその全員が男性でした。「女性器に対する卑猥な印象を払拭し、女性器を表現することを日常生活に浸透させたいという思想」に基づいたプロジェクトアートが、裁判官個人の道徳的価値観や性的な感覚についての主観性を斥けられないまま、男性のみの判断によって否定されたということです。刑法175条により、ある道徳的価値観における理性を模倣させることを求めて来た結果、現前したのは、ジェンダーの不均衡です。


以上


女子現代メディア文化研究会代表/デザイナー・アートディレクター
山田久美子



[注]

※1:「平成29年(あ)第829号 わいせつ電磁的記録等送信頒布、わいせつ電磁的記録記録媒体頒布被告事件
   令和2年7月16日 第一小法廷判決」判決文
  (https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/579/089579_hanrei.pdf

ろくでなし子氏裁判  最高裁判決についての意見書 (PDF版 381KB)