2017年5月15日月曜日

白川昌生氏の作品の撤去指導に反対し、改めて展示を求める意見書


【はじめに】

群馬県立近代美術館(以下、同美術館)にて本年4月22日から始まった企画展「群馬の美術2017−地域社会における現代美術の居場所−」において、展示予定だった白川昌生氏の作品が撤去となりました。
撤去となった作品は「群馬朝鮮人強制連行追悼碑」です。この作品は県立公園群馬の森(同美術館と同じ敷地内)にある朝鮮人労働者の追悼碑がモティーフとなっており、碑の設置許可の更新を巡り群馬県と市民団体が係争中となっています。
白川氏は、近年起こっている、一部の市民や行政によるモニュメントの改ざん・排除への動きについての観点から、この追悼碑を巡る状況を問題提起したかったとし、作品「群馬朝鮮人強制連行追悼碑」を作ったとのことです。
そして撤去に至る経緯ですが、白川氏は、3月の時点でこの追悼碑をモティーフとする作品を展示する意向を学芸員に伝えていましたが、4月21日夜、岡部昌幸館長が展示の取りやめを決め、4月22日、開場前に白川氏の手により作品の撤去をすることになったとのことです。


【意見趣旨】

この度の同美術館における作品の撤去は、作品の内容を理由に館長が展示の取りやめを決め執り行われました。展示会の開場直前に「指導」という形で行政が介入し自主規制を促したわけですが、「表現の自由」という重要な権利を制限していながら、それを正当化できるだけの、「目的正当性」や「手段許容性」があったのか疑問があります。
また、この度の作品の撤去指導は、作品の作者である白川氏の問題提起としての発言の機会を奪うこととなり、同時に市民に対しては、その問題提起について考え得る機会をも奪うこととなりました。
私ども女子現代メディア文化研究会は、この度行われた作品の撤去指導は行政による不当な表現規制であると考え、同美術館に改めて作品の展示を求めます。


【意見の詳細】

この度のような美術館における作品の撤去問題を考えるにあたり、まず認識しておきたいのは、デザインで言うところの「仕事上の制約」とは別質の問題であるということです。つまり小売店のブランディングに基づき陳列する商品を峻別することは、クライアントありきで行われる一くくりのプロジェクトにおけるデザイン上の制約で、表現の自由の制限とは全く別であるということです。一方、展示される予定であった美術作品が、展覧会の開場直前で館長の決定により介入され撤去に至ったというこの度のような問題は、表現の自由に関わる問題です。デザイン上のブランディングで商品が峻別されることと、この度のような作品の撤去指導とは別種の問題であり、これらは注意深く区別されなければなりません。

そもそも、「美術館」という場について問いたいことがあります。
「美術」は、時に社会風刺し、時に意見表明し、時に問題提起を行います。それは、作品を通し、社会問題に対し、政治に対し、作者の関心事に対し。花や風景、人物を描き表現することだけが「美術」ではありません。例えば、政治的な作品でいえば反戦を描いたパブロ・ピカソの「ゲルニカ」があります。また、「プロレタリア美術」というジャンルが存在しているくらいなわけで、これは問題提起や政治的な(あるいはそうした関心による)表現を「美術」が内包していることの証左です。
これが「美術」です。「美術」を展示する施設が「美術館」であるべきですが、この度の作品撤去の件は、我が国の「美術館」が「美術」を受容し展示する施設として存続し得るか否かが、岐路に差し掛かっているという問題の露呈とも考えられます。この度の同美術館における作品の撤去は、美術を展示する重要な場である施設としての、そうした一種の「揺らぎ」の中で起こった問題と言えましょう。
白川氏の問題提起に対し、作品の撤去指導という答えを返す。それは第一に、作者の白川氏に対しては発言の機会を奪い、第二に、観覧する市民に対してはその問題提起について考え議論し得る機会を奪ってしまう行為です。これは、ヴォルテールの言葉「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。」(注:ヴォルテールの言葉とされているが実際には違うという説もある。が、この言葉は民主主義の根幹をよく表している。)に頷く私どもから見れば、民主主義の根幹を軽んじる行為であって、表現に場を提供する重要な施設である美術館において行われたという点においても問題があると考えます。

この度の作品の撤去は県立の美術館で行われたことであり、行政が表現に直接介入して指導したものです。これは、憲法で保障される重要な権利である「表現の自由」の制限であり、本来極めて慎重であるべきです。しかも指導は作品の内容を理由に行われたのだから、表現の内容規制です。したがって、このような作品の撤去が、憲法上、表現の自由の制約として許容されるためには、厳格な審査基準に適合しなければならないはずです。すなわち、規制の目的が「やむにやまれぬ必要不可欠な公共的利益」でなければならず、また手段としても「目的の達成に是非とも必要な最小限度」のものでない限りは正当化することができません。
この点につきまして、検証してみたいと存じます。
まず、「やむにやまれぬ必要不可欠な公共的利益」があるかどうかについてです。例えば、作品の内容そのものが犯罪行為(名誉毀損等)であったり、作品の展示によって直ちに暴動や混乱が煽動されると予想されるというような場合には、「やむにやまれぬ必要不可欠な公共的利益」を守るための介入として許容される余地があるとは言い得ます。
この度の白川氏の作品を展示したとして侵害される可能性のある利益は、この作品の展示を望まない一部の市民の心情であることが予想されます。とは言え、表現行為に伴い常に害される可能性のあるこうした市民の心理心情一般が、「やむにやまれぬ必要不可欠な公共的利益」とまで言えるのかは甚だ疑問です。
また、こうした、作品の展示を望まない一部の市民からのクレームや業務妨害行為によって、美術館や県の利益が侵害されることも考えられます。しかし、クレイマーの対応について察しないわけではありませんが、こちらも表現そのものが犯罪であったり、直ちに暴動や混乱を煽動することが明らかなものではない以上、展示前の未だクレイマーによる業務妨害行為もなされていない段階で、直ちに行政として表現行為を制約しなければならない「やむにやまれぬ必要不可欠な公共的利益」があるとまでは言えないでしょう。
また、手段が「目的の達成に是非とも必要な最小限度」のものであるかどうかについてですが、これは、作品の撤去の他に対処法があります。例えばこの作品の展示を望まない一部の市民が起こすかもしれない美術館での業務妨害行為・その他のトラブルについては、会場の警備を強化するなどといった方法を用いることができます。
したがって、制約の目的が「やむにやまれぬ必要不可欠な公共的利益」である、そして、手段が「目的の達成に是非とも必要な最小限度」のものである、とは到底言うことができません。
以上、作品の展示に行政が介入し作品撤去を促したこの度の指導について、正当化できるか否かを検証してみましたが、そのための基準は満たしてはおりません。これでは、正当化はできません。

なお、撤去を促した同美術館側は、係争中の問題を巡り「どちらか一方に偏るような展示は適当でないと判断した」と主張しています。作品のモティーフとなっている追悼碑は、公園への設置許可の更新を巡り係争中となっており、もしこれが展示されると、公共的公益的性格を有する県立の施設が係争中の一方の意見に荷担することになり、政治的中立性を損なうことになるというのです。
ですが、これにも異議があります。これは、美術館として作品を撤去すれば、県と利益相反の立場とならず、どちらか一方に偏らずに中立性を守ることができるという主張となりますが、実際のところはいかがでしょうか?
展示される予定であった作品をわざわざ展覧会の開場前に撤去を促すというパフォーマンスは、結果的にこの作品の展示を望まない一部の市民の意思を尊重していることを示してみせたことになったのではないでしょうか。しかも館長が撤去を決めたのであれば、それは、館長がどちらか一方の立場を肯定していることを示していることとなります。
係争中の問題を巡りそれが政治的な関わりも含むということから、利益相反の立場にならないことに配慮したという点で、公立の美術館として「政治的中立」の意図もあったようですが、実際は逆の作用をしてしまったのではないでしょうか。
とは言え、公立の美術館であれば一部の市民に向かって開かれているのではないわけで、政治的に中立するべきではあります。しかしながら、「政治的中立」とは政治的な理由で作品の内容を根拠に撤去を促すということではないと考えます。「美術」は時に政治的であるとも言えますが、「美術館」と名乗る施設ならば、むしろこうした表現を受け入れあくまで作品の展示の場としての役割を果たすべきです。その上で、一度展示すると決めた作品の内容からは中立し、美術館あるいは美術館長としての政治的立場によって作品に介入するべきではありません。
特に、この度撤去となった作品の意図は「問題提起」です。本来ならば、市民としての作者の表現の一つであり意見の一つであるとして、作品を展示するべきではなかったでしょうか? そうした意見の表明を市民に届け、賛成であれ反対であれ議論を活性化することこそ、むしろ公立の美術館として社会の中で果たすべき役割であったのではないでしょうか。


【 結 論 】

以上から、この度の同美術館による白川氏の作品についての撤去指導は、適切な対応であったと言うことはできません。ゆえに、白川氏の作品「群馬朝鮮人強制連行追悼碑」の撤去指導に反対します。
同美術館には、今からでも遅くはないので、作品の撤去を取り消し改めて展示することを求めます。群馬県の美術館の問題ではありますが、これは群馬県だけの問題ではなく美術館の問題、そして表現者の問題、ひいては民主主義の根幹を揺るがしかねない極めて重要な問題です。放置すれば、萎縮効果を招きかねません。
この度の美術作品の撤去問題は、我が国の美術館が「美術」を展示する施設として存続できるのか否か、岐路に立っていることを示したとも言えましょう。「美術」は超然として、美術館あるいは館長個人の政治的立場の外にあって、展示ができなければなりません。しかしながら、この度の撤去問題を鑑みれば、政治的立場によって行政が作品に介入できるのが現状と言えます。そろそろ、こうした現状について見直し、「美術」が超然として展示できるための新たな仕組みづくりが必要な時期に来ているということは明らかでしょう。
問題提起とはなりますが、我が国の美術館は美術館としての社会的役割について振り返り、「日本図書館協会」の委員会で「図書館の自由委員会」が行っている「図書館の自由に関する宣言」のような表明を行うべきではないでしょうか? 美術館は、我が国においても表現を展示する施設としても重要な役割を担っております。美術館として、まず「美術館の自由に関する宣言」を採択し、今一度、現行の美術館の制度に関し振り返るきっかけとしていただきたいと存じます。
創る意思はどの時代であれ、人間が生き続ける限り存在します。美術をこれからの世代に受け継いでいくためにも、美術館には「美術」の受け皿としての重要な決断が迫られています。


以上

女子現代メディア文化研究会代表/デザイナー
山田久美子