内閣府男女共同参画局が募集している「第5次男女共同参画基本計画策定に当たっての基本的な考え方(素案)」についてのパブリックコメントを提出いたしました。
以下、様式に則った回答を転載いたしました。
ご意見(1):
1ページ、6ページ、7ページ、「基本的な方針」、他について
「男女共同参画基本計画の目指すべき社会」を男女の人権が尊重された社会としているものの、この計画では、6ページ、7ページからもわかるように、セクハラや性暴力についての問題意識は女性に対するそれらについての意識が主軸となっている。被害者は女性に限らないのだから、そうした問題を「男女共同参画」の枠組みで扱うのは無理がある。
労働の場におけるそうした問題ならば、性による区別なく労働問題の一部として取り扱うべきであり、男性の被害者が取り残されない仕組みづくりが必要である。
47ページ、「子供、若年層に対する性的な暴力の根絶に向けた対策の推進」、他について
子供への性暴力は性による区別なく子供の人権に関わる問題なので、こちらも「男女共同参画」の枠組みで扱うのは無理がある。こうした問題は、「子供の権利」の枠組みで取り扱うべきである。
該当分野(2):第2部 II 第5分野 女性に対するあらゆる暴力の根絶
該当ページ数(2):54
ご意見(2):54ページ、「8 インターネット上の女性に対する暴力等への対応」について
ここで示されるような、メディアにおける不適切な性・暴力表現を防止する施策は行政が行うべきではない。女性の活躍の場を奪い、むしろ、女性への差別的状況を生み出すと考えるからである。
インターネット上のメディアにはアニメや映画等の動画や漫画等の電子書籍も含まれる。そうしたメディアでの性・暴力表現の適切さの判断基準だが、これは道徳的価値観に基づく。そして、道徳的価値観は個人や社会集団によって差異がある。
行政が、道徳的価値観に基づき性・暴力表現の適切さの判断基準を決定すれば、国民に対しそうした道徳的価値観における理性を模倣させる圧力となる。結局のところ、行政が根拠とする道徳的価値観であっても、そうした価値観は、各社会集団や個人のそれに依拠する。したがって、そうした圧力を加えようとすれば、行政が採用した道徳的価値観と異なる価値観を持つ人々の価値観や思想が否定されることになる。価値観の差違から軋轢が生じる場面もあり、行政が国民の内心の自由に踏み込むことにもなる。
なお、製造途中に実際の人権侵害が含まれる記録物の取締まりは行うべきであるが、道徳的価値観と人権侵害の問題は別質であるので、分けて考えるべきである。
また、そうしたメディアの創作の場は、男女雇用機会均等法施行以前(素案では男女雇用機会均等法は昭和47年施行となっているが不正確である。昭和47年施行となったのは勤労婦人福祉法であり、同法からは紆余曲折があり昭和61年の男女雇用機会均等法施行となっているわけで、この昭和61年施行から続く男女雇用機会均等法と勤労婦人福祉法を同列に扱えば誤謬が生じる)から、女性が自らの努力で切り拓いてきた女性が活躍する場でもある。特に漫画は「少女漫画」というジャンルができ、女性の漫画家が活躍され創作において性表現も行われてきた。竹宮惠子先生の「風と木の詩」では登場人物への暴力も含む性描写がされた。行政が性・暴力表現の適切性を判断しその道徳的価値観における理性を模倣させる圧力となるならば、こうした作品が排除されかねない。
先人の女性の努力を蔑ろにせず、女性の活躍の場を奪うことにならないよう、こうした創作の場を発展的に継承していくべきである。
該当分野(3):第2部 III 第9分野 男女共同参画の視点に立った各種制度等の整備
該当ページ数(3):79
ご意見(3):79ページ、「第10分野 教育・メディア等を通じた男女双方の意識改革、理解の促進」について
漫画やアニメ、映画等を含めたメディア全般に、行政がそうした意識改革の理解を促す媒介となる義務をおわせるならば、「男女共同参画」にとって望ましい表現以外はあらかじめ排除されることになり、創作を行う人々の自由な表現を阻害することになる。
例えば時代劇のような、現代と価値観が異なる封建的な社会を題材に創作を行うのが困難になることが予想される。
全てのメディアがそうした意識改革の理解を促す「教科書」的なコンテンツとなる必要はない。そうした理解を促すならば、それを目的とするパンフレットや動画等の一部のメディアが行うにとどめるべきである。
以上
2020年9月7日月曜日
2020年7月28日火曜日
ろくでなし子氏裁判 最高裁判決についての意見書
【はじめに】
7月16日、最高裁判決にてろくでなし子氏の有罪が確定しました。ろくでなし子氏のプロジェクトアートの過程における、ご自身の女性器をスキャンした三次元形状データファイル(以下「本件3Dデータ」)を、クラウドストレージを利用する手段・CD-Rに複製して郵送する手段で配布した部分について、わいせつ電磁的記録等送信頒布、わいせつ電磁的記録記録媒体頒布の罪に問われていた裁判です(なお、都内アダルトショップにおける、女性器をかたどった立体作品「デコまん」の展示については、2016年5月9日の東京地裁の判決で無罪となっている)。
【意見の趣旨】
この度の最高裁判決は不当判決である。
刑法175条について、廃止を含めた検討を始める時期にあると考える。
【意見の理由】
[理由1]
罪に問われた本件3Dデータの配布は、ろくでなし子氏のプロジェクトアートの過程でのことである。違法性阻却のための芸術性・思想性が認められるかについては、プロジェクトアートとして扱い検証するべきであったが、プロジェクトアートとしては検証するべき焦点がずれ、バランスを欠いた判断がなされた。
[理由2]
そもそも、裁判官がわいせつ性の有無を判断する際のわいせつ3要件における、「普通人」の判断基準、「普通人」の「正常な性的羞恥心」の判断基準、これらの妥当性に疑問がある。
また、その判断の際、裁判官の主観性を完全に斥ける手段は、我が国の司法のシステムには備わっていない。
【意見の背景】
[理由1について]
プロジェクトアートの本質には「過程」があります。アーティストが作意により企図したプロジェクトの進行、オーディエンスとの関わり、そうした要因による可変的な現前、それら全体が作品です。作品には、プロジェクトの中の個別のプロジェクト、そして、プロジェクトにおいて制作した個別の物やデータも含まれます。プロジェクトアートは、こうした「過程」を除外してとらえることは出来ません。
また、こうしたプロジェクトアートは、現代の芸術が陥っていた様相への一つのアンチテーゼでもあり、美術館のホワイトキューブで展示された物のみが作品となるのか? という問いへの一つの解でもありました。
こうしたプロジェクトアートの本質を鑑みれば、プロジェクト全体の中の個別のプロジェクト、および、制作した個別の物やデータ状の作品について検証を試みる際には、プロジェクト全体の「過程」としての「持続」が作品であって、その「持続」の「断片」を検証しているのだという意識がなければ判断を誤ります。「断片」は同時に「持続」なのだから、「断片」を対象に検証する際は、同時に「持続」としても検証していなければなりません。
しかしながら、判決文(※1)を見ると、「行為者によって頒布された電磁的記録又は電磁的記録に係る記録媒体について」ばかりが焦点となり、「断片」と同時に注がれるべき「持続」への視点を欠く内容となっています。
わいせつ性については、本件3Dデータを「コンピュータにより画面に映し出した画像やプリントアウトしたものなど同記録を視覚化したもののみを見て」、違法性阻却のための芸術性・思想性やわいせつ性の検討および判断をするべきであるとし、そして、「本件データ又は本件CD-Rの頒布が前記各機会を他者に与えるものであることに」、すなわち、本件3Dデータを配布された人々に、そのデータを加工して創作をする機会を与えるものであることに、「芸術性・思想性が含まれているとしても、そのことを考慮してこれらの検討及び判断をすべきではない」と明言しています。
これは、プロジェクト全体の「過程」としての「持続」の一部分である本件3Dデータの提供から、さらにそのデータを視覚化した情報のみを焦点としているのであって、すなわち、「断片」のさらなる「断片」のみを焦点としているのであって、プロジェクトアートが「持続」であることに基づけば、適当なバランスによる検証が成立しているわけがありません。
「持続」への視点を持つならば、次のような要素も検証の対象として加味されてしかるべきでした。この度の、全体のプロジェクトがどういった作意から企図されたのかということの思想はもちろんのこと、個別のプロジェクトとしての本件3Dデータの配布が全体のプロジェクトから見てどういった位置にあり、他の個別のプロジェクトとどのように関係し、その関係性による配布それ自体の「行為」としての作品性、オーディエンスとしての本件3Dデータを受け取った人々との関わり、またそのオーディエンス側の作意、それらによる可変的な現前。
この度の最高裁では、そうした要素の中でも、本件3Dデータを受け取った人々の作意が一考だにされませんでした。その上で、本件3Dデータにわいせつ性があると断じたのは、検証するべき重要な要素を見落とした、バランスに欠ける判断です。
プロジェクトアートは、関わったオーディエンスの介在も作品の一部です。プロジェクトアートの「過程」には、アーティストとオーディエンス双方により作品を作りあげているという要素もあります。したがって、アーティストの作意だけを芸術性・思想性の検証の対象とするのではなく、オーディエンスとしての本件3Dデータを受け取った人々の作意についての視点も必要です。
本件3Dデータを受け取った人々は、ろくでなし子氏の作品「マンボート」の制作に賛同し、クラウドファンディングにて資金提供をした人々、氏が創作、販売した商品を購入した人々の一部です。本来ならば、そうした人々に、本件3Dデータがどういった解釈で受け取られたのかについても考慮し、芸術性・思想性が検証されていなければなりませんでした。
ろくでなし子氏は「女性器に対する卑わいな印象を払拭し、女性器を表現することを日常生活に浸透させたいという思想」に基づいてプロジェクトアートを進行していました。ゆえに、アーティストとオーディエンスという関係性から判断すれば、本件3Dデータを受け取った人々には氏のこの思想に共鳴や賛同する思想があったという見方が成り立ちます。そうした人々にとって本件3Dデータは、その思想の証、ないし、——自らも「データを加工して創作」を試みるためであればこそ——作品を創作する上での「素材」と解釈されていたのではないかということです。それを一考だにせず、わいせつの3要件を満たすものとして解釈されていたと断じるならば、それは公平性に欠ける判断といわざるを得ません。
また、この度の裁判のように「コンピュータにより画面に映し出した画像やプリントアウトしたものなど同記録を視覚化したもの」を見て判断するというならば、なおさら、本件3Dデータを受け取った人々の作為の介在を無視することはできません。本件3Dデータは、データを加工するためのアプリケーションの性能上可能である限りの自由度で着色できるのであって、本件3Dデータを受け取った人々の作意をもってすれば、本件3Dデータは作品を創作する上での「素材」となります。それにもかかわらず、裁判官は、その人々に本件3Dデータはわいせつの3要件を満たすものとして受け取られていると、アーティストとオーディエンスの関係性を考慮せずに、第三者の立場から決めつけています。本件3Dデータを受け取った人々の作意は、裁判官があらかじめ推し量ることはできないのであって、なおさら公平な判断とはいえません。
以上のように、違法性阻却のための芸術性・思想性について認められるかについては、検証対象とする要素への視点の欠落があり、プロジェクトアートとしての検証を十分に行なうことが出来ていなかったということは明らかです。これでは、プロジェクトアートとして作品の芸術性・思想性の有無を判断していたことにはなりません。
[理由2について]
(1)いたずらに性欲を興奮又は刺激せしめ
(2)普通人の正常な性的羞恥心を害し
(3)善良な性的道義観念に反するもの
刑法175条で罪に問われる対象にわいせつ性があると判断するためには、これらのわいせつ3要件を満たす必要があります。
このうちの「普通人」を巡っては、そもそもいくつかの疑問があります。
第一に、「普通人」の判断基準は何か。
第二に、「普通人」の「正常な性的羞恥心」の判断基準何か。
第三に、それらを判断する際、裁判官の主観性を完全に斥ける手段はあるのか。
第一、第二について。これらわいせつ3要件は、1957年の「チャタレイ夫人の恋人」を巡る最高裁判決で示されたものであり、以降、1969年の「悪徳の栄え」事件判決や1980年の「四畳半襖の下張」事件判決等で判断の枠組みが作らたという経緯があります。よって、「普通人」であることおよび「普通人」の「正常な性的羞恥心」の判断基準はそうした過去の判例といえるのであり、判断材料としては被告側の主張があります。
しかし、道徳的価値観は時代によって異なります。過去の判例を判断基準として、過去の判断や出来事を現在にあてはめて判断をしようとしても、現在の価値観から見て必ずしも適当とはいえない判断が生じることがあります。よって、過去の判例を判断基準とすることの妥当性は、問われる部分があります。
第三について。感覚や思想は個人によって差異があります。性道徳を含む道徳的価値観や性的な感覚もまた、個人によって差異があり、個別の社会集団や個人によっても——特に個人の性的嗜好・性的指向によっても——差異があります。したがって、道徳的価値観や性的な感覚に基づく正常か異常かの判断も、個人によって差異があり、そうした判断から裁判官個人としての主観性を完全に斥けるのは不可能です。
過去の判例に頼るという手段により、主観性を斥け客観性を保つことができるという反論があるかもしれません。しかし、道徳的価値観は時代によって異なります。上に述べたのと同様、過去と現在の価値観の差異により、必ずしも適当とはいえない判断が生じることがあります。
このように、「普通人」や「普通人」の「正常な性的羞恥心」の判断基準を、過去の判例に頼れば、現在の価値観との整合性において問題が生じます。そして、それらを判断する際も、裁判官個人の主観性の介在を完全に斥けるのは困難で、それを実現する適切な手段を見出すのもまた難しい現状があります。
【結 論】
この度の最高裁で、作品のわいせつ性を判断するにあたっては、プロジェクトアートとして「過程」という視点がどのように判決に反映されているかという点につきまして、私どもは注目していた次第です。
しかしながら、この度の最高裁においては、初動からプロジェクトアートとして検証すべき焦点が見失われ、「過程」として本来検証すべきであった要素について十分に取り扱われないままの判決となりました。これは、裁判官のプロジェクトアートについての知見がもともと必要な水準に達していないために、判断を見誤ったということです。したがって、この度の最高裁判決は不当判決であったということは明らかです。
そもそも、刑法175条のわいせつ性の判断に問題点があるということは、上に述べたとおりです。道徳的価値観や性的感覚は、時代や個別の社会集団や個人によって差異があるし、それに基づく判断から個人の主観性を完全に斥けることは不可能です。
結局のところ、道徳的規範から外れることを根拠に刑事罰を科すのであっては、各社会集団や個人の道徳的価値観を根拠とし、国が国全体に向けた道徳的規範を決定し、国民にその道徳的価値観における理性を模倣させる圧力が生じることになります。各社会集団や個人の道徳的価値観は、各社会集団内で共有されたり個人が持ったりすることには問題は生じないかも知れませんが、その外部の社会や個人を巻き込みそうした圧力が生じれば、巻き込まれた側の人々の価値観や思想が否定されることにもなりかねません。グローバル化が進んだ現代社会では、ある社会集団に共有される道徳的価値観に基づき、その外部の社会に向かって理性を模倣させる圧力を与える場面があり、軋轢が生じる例も少なくありません。
刑法175条には以上のような問題点があり、その上、被害者が発生していないのに刑事罰が科せられます。刑法175条の正当性はそろそろ問われるべきであり、廃止を含めた検討も行われるべき時期に来ています。
最後に特筆しておきますが、この度の最高裁における裁判官はその全員が男性でした。「女性器に対する卑猥な印象を払拭し、女性器を表現することを日常生活に浸透させたいという思想」に基づいたプロジェクトアートが、裁判官個人の道徳的価値観や性的な感覚についての主観性を斥けられないまま、男性のみの判断によって否定されたということです。刑法175条により、ある道徳的価値観における理性を模倣させることを求めて来た結果、現前したのは、ジェンダーの不均衡です。
[注]
※1:「平成29年(あ)第829号 わいせつ電磁的記録等送信頒布、わいせつ電磁的記録記録媒体頒布被告事件
令和2年7月16日 第一小法廷判決」判決文
(https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/579/089579_hanrei.pdf)
・ろくでなし子氏裁判 最高裁判決についての意見書 (PDF版 381KB)
7月16日、最高裁判決にてろくでなし子氏の有罪が確定しました。ろくでなし子氏のプロジェクトアートの過程における、ご自身の女性器をスキャンした三次元形状データファイル(以下「本件3Dデータ」)を、クラウドストレージを利用する手段・CD-Rに複製して郵送する手段で配布した部分について、わいせつ電磁的記録等送信頒布、わいせつ電磁的記録記録媒体頒布の罪に問われていた裁判です(なお、都内アダルトショップにおける、女性器をかたどった立体作品「デコまん」の展示については、2016年5月9日の東京地裁の判決で無罪となっている)。
【意見の趣旨】
この度の最高裁判決は不当判決である。
刑法175条について、廃止を含めた検討を始める時期にあると考える。
【意見の理由】
[理由1]
罪に問われた本件3Dデータの配布は、ろくでなし子氏のプロジェクトアートの過程でのことである。違法性阻却のための芸術性・思想性が認められるかについては、プロジェクトアートとして扱い検証するべきであったが、プロジェクトアートとしては検証するべき焦点がずれ、バランスを欠いた判断がなされた。
[理由2]
そもそも、裁判官がわいせつ性の有無を判断する際のわいせつ3要件における、「普通人」の判断基準、「普通人」の「正常な性的羞恥心」の判断基準、これらの妥当性に疑問がある。
また、その判断の際、裁判官の主観性を完全に斥ける手段は、我が国の司法のシステムには備わっていない。
【意見の背景】
[理由1について]
プロジェクトアートの本質には「過程」があります。アーティストが作意により企図したプロジェクトの進行、オーディエンスとの関わり、そうした要因による可変的な現前、それら全体が作品です。作品には、プロジェクトの中の個別のプロジェクト、そして、プロジェクトにおいて制作した個別の物やデータも含まれます。プロジェクトアートは、こうした「過程」を除外してとらえることは出来ません。
また、こうしたプロジェクトアートは、現代の芸術が陥っていた様相への一つのアンチテーゼでもあり、美術館のホワイトキューブで展示された物のみが作品となるのか? という問いへの一つの解でもありました。
こうしたプロジェクトアートの本質を鑑みれば、プロジェクト全体の中の個別のプロジェクト、および、制作した個別の物やデータ状の作品について検証を試みる際には、プロジェクト全体の「過程」としての「持続」が作品であって、その「持続」の「断片」を検証しているのだという意識がなければ判断を誤ります。「断片」は同時に「持続」なのだから、「断片」を対象に検証する際は、同時に「持続」としても検証していなければなりません。
しかしながら、判決文(※1)を見ると、「行為者によって頒布された電磁的記録又は電磁的記録に係る記録媒体について」ばかりが焦点となり、「断片」と同時に注がれるべき「持続」への視点を欠く内容となっています。
わいせつ性については、本件3Dデータを「コンピュータにより画面に映し出した画像やプリントアウトしたものなど同記録を視覚化したもののみを見て」、違法性阻却のための芸術性・思想性やわいせつ性の検討および判断をするべきであるとし、そして、「本件データ又は本件CD-Rの頒布が前記各機会を他者に与えるものであることに」、すなわち、本件3Dデータを配布された人々に、そのデータを加工して創作をする機会を与えるものであることに、「芸術性・思想性が含まれているとしても、そのことを考慮してこれらの検討及び判断をすべきではない」と明言しています。
これは、プロジェクト全体の「過程」としての「持続」の一部分である本件3Dデータの提供から、さらにそのデータを視覚化した情報のみを焦点としているのであって、すなわち、「断片」のさらなる「断片」のみを焦点としているのであって、プロジェクトアートが「持続」であることに基づけば、適当なバランスによる検証が成立しているわけがありません。
「持続」への視点を持つならば、次のような要素も検証の対象として加味されてしかるべきでした。この度の、全体のプロジェクトがどういった作意から企図されたのかということの思想はもちろんのこと、個別のプロジェクトとしての本件3Dデータの配布が全体のプロジェクトから見てどういった位置にあり、他の個別のプロジェクトとどのように関係し、その関係性による配布それ自体の「行為」としての作品性、オーディエンスとしての本件3Dデータを受け取った人々との関わり、またそのオーディエンス側の作意、それらによる可変的な現前。
この度の最高裁では、そうした要素の中でも、本件3Dデータを受け取った人々の作意が一考だにされませんでした。その上で、本件3Dデータにわいせつ性があると断じたのは、検証するべき重要な要素を見落とした、バランスに欠ける判断です。
プロジェクトアートは、関わったオーディエンスの介在も作品の一部です。プロジェクトアートの「過程」には、アーティストとオーディエンス双方により作品を作りあげているという要素もあります。したがって、アーティストの作意だけを芸術性・思想性の検証の対象とするのではなく、オーディエンスとしての本件3Dデータを受け取った人々の作意についての視点も必要です。
本件3Dデータを受け取った人々は、ろくでなし子氏の作品「マンボート」の制作に賛同し、クラウドファンディングにて資金提供をした人々、氏が創作、販売した商品を購入した人々の一部です。本来ならば、そうした人々に、本件3Dデータがどういった解釈で受け取られたのかについても考慮し、芸術性・思想性が検証されていなければなりませんでした。
ろくでなし子氏は「女性器に対する卑わいな印象を払拭し、女性器を表現することを日常生活に浸透させたいという思想」に基づいてプロジェクトアートを進行していました。ゆえに、アーティストとオーディエンスという関係性から判断すれば、本件3Dデータを受け取った人々には氏のこの思想に共鳴や賛同する思想があったという見方が成り立ちます。そうした人々にとって本件3Dデータは、その思想の証、ないし、——自らも「データを加工して創作」を試みるためであればこそ——作品を創作する上での「素材」と解釈されていたのではないかということです。それを一考だにせず、わいせつの3要件を満たすものとして解釈されていたと断じるならば、それは公平性に欠ける判断といわざるを得ません。
また、この度の裁判のように「コンピュータにより画面に映し出した画像やプリントアウトしたものなど同記録を視覚化したもの」を見て判断するというならば、なおさら、本件3Dデータを受け取った人々の作為の介在を無視することはできません。本件3Dデータは、データを加工するためのアプリケーションの性能上可能である限りの自由度で着色できるのであって、本件3Dデータを受け取った人々の作意をもってすれば、本件3Dデータは作品を創作する上での「素材」となります。それにもかかわらず、裁判官は、その人々に本件3Dデータはわいせつの3要件を満たすものとして受け取られていると、アーティストとオーディエンスの関係性を考慮せずに、第三者の立場から決めつけています。本件3Dデータを受け取った人々の作意は、裁判官があらかじめ推し量ることはできないのであって、なおさら公平な判断とはいえません。
以上のように、違法性阻却のための芸術性・思想性について認められるかについては、検証対象とする要素への視点の欠落があり、プロジェクトアートとしての検証を十分に行なうことが出来ていなかったということは明らかです。これでは、プロジェクトアートとして作品の芸術性・思想性の有無を判断していたことにはなりません。
[理由2について]
(1)いたずらに性欲を興奮又は刺激せしめ
(2)普通人の正常な性的羞恥心を害し
(3)善良な性的道義観念に反するもの
刑法175条で罪に問われる対象にわいせつ性があると判断するためには、これらのわいせつ3要件を満たす必要があります。
このうちの「普通人」を巡っては、そもそもいくつかの疑問があります。
第一に、「普通人」の判断基準は何か。
第二に、「普通人」の「正常な性的羞恥心」の判断基準何か。
第三に、それらを判断する際、裁判官の主観性を完全に斥ける手段はあるのか。
第一、第二について。これらわいせつ3要件は、1957年の「チャタレイ夫人の恋人」を巡る最高裁判決で示されたものであり、以降、1969年の「悪徳の栄え」事件判決や1980年の「四畳半襖の下張」事件判決等で判断の枠組みが作らたという経緯があります。よって、「普通人」であることおよび「普通人」の「正常な性的羞恥心」の判断基準はそうした過去の判例といえるのであり、判断材料としては被告側の主張があります。
しかし、道徳的価値観は時代によって異なります。過去の判例を判断基準として、過去の判断や出来事を現在にあてはめて判断をしようとしても、現在の価値観から見て必ずしも適当とはいえない判断が生じることがあります。よって、過去の判例を判断基準とすることの妥当性は、問われる部分があります。
第三について。感覚や思想は個人によって差異があります。性道徳を含む道徳的価値観や性的な感覚もまた、個人によって差異があり、個別の社会集団や個人によっても——特に個人の性的嗜好・性的指向によっても——差異があります。したがって、道徳的価値観や性的な感覚に基づく正常か異常かの判断も、個人によって差異があり、そうした判断から裁判官個人としての主観性を完全に斥けるのは不可能です。
過去の判例に頼るという手段により、主観性を斥け客観性を保つことができるという反論があるかもしれません。しかし、道徳的価値観は時代によって異なります。上に述べたのと同様、過去と現在の価値観の差異により、必ずしも適当とはいえない判断が生じることがあります。
このように、「普通人」や「普通人」の「正常な性的羞恥心」の判断基準を、過去の判例に頼れば、現在の価値観との整合性において問題が生じます。そして、それらを判断する際も、裁判官個人の主観性の介在を完全に斥けるのは困難で、それを実現する適切な手段を見出すのもまた難しい現状があります。
【結 論】
この度の最高裁で、作品のわいせつ性を判断するにあたっては、プロジェクトアートとして「過程」という視点がどのように判決に反映されているかという点につきまして、私どもは注目していた次第です。
しかしながら、この度の最高裁においては、初動からプロジェクトアートとして検証すべき焦点が見失われ、「過程」として本来検証すべきであった要素について十分に取り扱われないままの判決となりました。これは、裁判官のプロジェクトアートについての知見がもともと必要な水準に達していないために、判断を見誤ったということです。したがって、この度の最高裁判決は不当判決であったということは明らかです。
そもそも、刑法175条のわいせつ性の判断に問題点があるということは、上に述べたとおりです。道徳的価値観や性的感覚は、時代や個別の社会集団や個人によって差異があるし、それに基づく判断から個人の主観性を完全に斥けることは不可能です。
結局のところ、道徳的規範から外れることを根拠に刑事罰を科すのであっては、各社会集団や個人の道徳的価値観を根拠とし、国が国全体に向けた道徳的規範を決定し、国民にその道徳的価値観における理性を模倣させる圧力が生じることになります。各社会集団や個人の道徳的価値観は、各社会集団内で共有されたり個人が持ったりすることには問題は生じないかも知れませんが、その外部の社会や個人を巻き込みそうした圧力が生じれば、巻き込まれた側の人々の価値観や思想が否定されることにもなりかねません。グローバル化が進んだ現代社会では、ある社会集団に共有される道徳的価値観に基づき、その外部の社会に向かって理性を模倣させる圧力を与える場面があり、軋轢が生じる例も少なくありません。
刑法175条には以上のような問題点があり、その上、被害者が発生していないのに刑事罰が科せられます。刑法175条の正当性はそろそろ問われるべきであり、廃止を含めた検討も行われるべき時期に来ています。
最後に特筆しておきますが、この度の最高裁における裁判官はその全員が男性でした。「女性器に対する卑猥な印象を払拭し、女性器を表現することを日常生活に浸透させたいという思想」に基づいたプロジェクトアートが、裁判官個人の道徳的価値観や性的な感覚についての主観性を斥けられないまま、男性のみの判断によって否定されたということです。刑法175条により、ある道徳的価値観における理性を模倣させることを求めて来た結果、現前したのは、ジェンダーの不均衡です。
以上
女子現代メディア文化研究会代表/デザイナー・アートディレクター
山田久美子
[注]
※1:「平成29年(あ)第829号 わいせつ電磁的記録等送信頒布、わいせつ電磁的記録記録媒体頒布被告事件
令和2年7月16日 第一小法廷判決」判決文
(https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/579/089579_hanrei.pdf)
・ろくでなし子氏裁判 最高裁判決についての意見書 (PDF版 381KB)
2020年2月20日木曜日
JAと「ラブライブ!」のコラボ企画に関連して発生した嫌がらせ行為に、強い憤りの意を表明します
JAと「ラブライブ! サンシャイン!!」のコラボ企画に関連して発生した、キャラクターの担当声優に対する嫌がらせ行為に対し、強い憤りの意を表明します。
本年(2020年)2月12日より開催されているJAと「ラブライブ! サンシャイン!!」のコラボ企画において、展示されたキャラクターの絵が、議論を呼んでいます。そしてこの動きに関連して、当該キャラクターの担当声優に対し、SNSを通じて、礼節のない文面で発言を繰り返し、同作品の制作者側に抗議するよう求めるアカウントも現れました。
もとより、表現の自由は批判を受けない自由ではなく、批判の自由は表現の自由の一環をなすものです。しかし、キャラクターの担当声優は、本件企画の企画者ではなく展示への影響力も乏しい個人であり、そのような個人に対し礼節を無視した文章で発言を繰り返し、義務のないことを行わせようとするのはもはや正当な批判とは言いがたいものです。
平素から、テロルという手段により、自己の目的や理想を実現することを認めない私どもの立場にあっては、同様に、このような嫌がらせ行為についてもまた認める立場にはありません。私どもは、そのような嫌がらせ行為について強い憤りの意を表明するとともに、そのような行為がエスカレートし、将来にわたり業務妨害に通じるような暴力的行為が起こることを懸念します。
たとえ「差別を解消する」という目的であったとしても、その目的を達成する手段として、声優への嫌がらせ行為を取ることは本末転倒であり、私どもはそのような行為を断固として否定します。担当声優に対する嫌がらせ行為は、とりもなおさず声優の労働環境を悪化させることになり、女性にとっても、地位向上、労働の場での機会均等、生きづらさといった、取り組むべき課題に抗うこととなるからです。
議論ならば大いに行うべきですし、フェミニズムの歴史においては、かつての平塚らいてうと与謝野晶子の間にあった「母性保護論争」のような例もあります。しかし、担当声優に最初から礼節を欠いた発言を繰り返し、およそ議論の場を成り立たせようという技術すらないまま嫌がらせ行為に陥ることは、女性には労働の場を得る困難さがあったという歴史を重く受け止める私どもの立場からも、到底、肯定することはできません。
漫画家やデザイナー、イラストレーター等のクリエイティブな業種は、1986年の男女雇用機会均等法施行以前から女性が従事しており、女性が努力によって獲得してきた労働の場の一つとなっています。
自身の名前をブランド名に冠するデザイナーの方もおられますが、わざわざその名前を言うまでもないでしょう。また、漫画においては、先人たちの努力もあって少女漫画という分野が確立し、女性の漫画家を輩出し増加させるきっかけにもなりました。「ラブライブ!」の担当声優もまた、努力をして労働の場を得た女性のお一人と言えるでしょう。
しかしながら、この度のような嫌がらせ行為がエスカレートし、将来にわたり業務妨害に通じるような暴力的行為を繰り返されるようになっては、実際の業務への影響が免れず、女性が獲得して来た労働の場すら失われかねません(※1)。
私どもは、女性の先人たちが努力して獲得して来た労働の場を荒廃させないことを願っております。
我が国においては、明治時代に入っても女性参政権がなく、女性国会議員の誕生は1946年まで待たなければなりませんでした(※2)。女性はそのように、社会の場によっては、いないことにされる存在でいた歴史もあります。そうした歴史を鑑みればこそ、担当声優に対する正当な批判とは言い難い「嫌がらせ」という、排斥につながる行為について、強い憤りを持って否定し断じて許すことはありません。
[注]
※1:なお、何者かの暴力的行為により実際の業務への影響があった例では、2012年からの「黒子のバスケ脅迫事件」が記憶に新しい。企業やイベント会場に脅迫があったおかげで、「黒子のバスケ」の関連グッズの制作やイベント等についての企画の中には、見送られることになったものもあります。
※2:戸主に限定されるという条件はあったが、高知県では、1880年に日本初の女性参政権が認められました。
「(反骨の記録:1)「民権ばあさん」扉開く」(朝日新聞デジタル2016年4月23日)(https://www.asahi.com/articles/ASJ2Q2GQ6J2QPIHB001.html)
・意見書「JAと「ラブライブ!」のコラボ企画に関連して発生した嫌がらせ行為に、強い憤りの意を表明します」(PDF版 262kb)
本年(2020年)2月12日より開催されているJAと「ラブライブ! サンシャイン!!」のコラボ企画において、展示されたキャラクターの絵が、議論を呼んでいます。そしてこの動きに関連して、当該キャラクターの担当声優に対し、SNSを通じて、礼節のない文面で発言を繰り返し、同作品の制作者側に抗議するよう求めるアカウントも現れました。
もとより、表現の自由は批判を受けない自由ではなく、批判の自由は表現の自由の一環をなすものです。しかし、キャラクターの担当声優は、本件企画の企画者ではなく展示への影響力も乏しい個人であり、そのような個人に対し礼節を無視した文章で発言を繰り返し、義務のないことを行わせようとするのはもはや正当な批判とは言いがたいものです。
平素から、テロルという手段により、自己の目的や理想を実現することを認めない私どもの立場にあっては、同様に、このような嫌がらせ行為についてもまた認める立場にはありません。私どもは、そのような嫌がらせ行為について強い憤りの意を表明するとともに、そのような行為がエスカレートし、将来にわたり業務妨害に通じるような暴力的行為が起こることを懸念します。
たとえ「差別を解消する」という目的であったとしても、その目的を達成する手段として、声優への嫌がらせ行為を取ることは本末転倒であり、私どもはそのような行為を断固として否定します。担当声優に対する嫌がらせ行為は、とりもなおさず声優の労働環境を悪化させることになり、女性にとっても、地位向上、労働の場での機会均等、生きづらさといった、取り組むべき課題に抗うこととなるからです。
議論ならば大いに行うべきですし、フェミニズムの歴史においては、かつての平塚らいてうと与謝野晶子の間にあった「母性保護論争」のような例もあります。しかし、担当声優に最初から礼節を欠いた発言を繰り返し、およそ議論の場を成り立たせようという技術すらないまま嫌がらせ行為に陥ることは、女性には労働の場を得る困難さがあったという歴史を重く受け止める私どもの立場からも、到底、肯定することはできません。
漫画家やデザイナー、イラストレーター等のクリエイティブな業種は、1986年の男女雇用機会均等法施行以前から女性が従事しており、女性が努力によって獲得してきた労働の場の一つとなっています。
自身の名前をブランド名に冠するデザイナーの方もおられますが、わざわざその名前を言うまでもないでしょう。また、漫画においては、先人たちの努力もあって少女漫画という分野が確立し、女性の漫画家を輩出し増加させるきっかけにもなりました。「ラブライブ!」の担当声優もまた、努力をして労働の場を得た女性のお一人と言えるでしょう。
しかしながら、この度のような嫌がらせ行為がエスカレートし、将来にわたり業務妨害に通じるような暴力的行為を繰り返されるようになっては、実際の業務への影響が免れず、女性が獲得して来た労働の場すら失われかねません(※1)。
私どもは、女性の先人たちが努力して獲得して来た労働の場を荒廃させないことを願っております。
我が国においては、明治時代に入っても女性参政権がなく、女性国会議員の誕生は1946年まで待たなければなりませんでした(※2)。女性はそのように、社会の場によっては、いないことにされる存在でいた歴史もあります。そうした歴史を鑑みればこそ、担当声優に対する正当な批判とは言い難い「嫌がらせ」という、排斥につながる行為について、強い憤りを持って否定し断じて許すことはありません。
[注]
※1:なお、何者かの暴力的行為により実際の業務への影響があった例では、2012年からの「黒子のバスケ脅迫事件」が記憶に新しい。企業やイベント会場に脅迫があったおかげで、「黒子のバスケ」の関連グッズの制作やイベント等についての企画の中には、見送られることになったものもあります。
※2:戸主に限定されるという条件はあったが、高知県では、1880年に日本初の女性参政権が認められました。
「(反骨の記録:1)「民権ばあさん」扉開く」(朝日新聞デジタル2016年4月23日)(https://www.asahi.com/articles/ASJ2Q2GQ6J2QPIHB001.html)
・意見書「JAと「ラブライブ!」のコラボ企画に関連して発生した嫌がらせ行為に、強い憤りの意を表明します」(PDF版 262kb)